いつもありがとうございます。
水子供養コーチの松坂ミキです。
ご自分の人生において、
必要な試練と必要じゃない試練があるのはご存知でしょうか。
生きていれば絶対辛いこともあるもので、できれば辛いことは避けたいところですが今回の人生に必要で経験するようになっているものは、それによって魂を磨くために起こります。
それに取り組んだり乗り越えることで沢山の学びや豊かさを得ることになるというわけです。
そしてその辛い経験を元に誰かを助けることができるようになったり、
苦労した中で得た知識が世の中のためになり自分が貢献できる…というような。
なので、こういうのは
あの時こうしたから失敗だったとか、
この道を選ばねばよかったとかいうような話ではないんですね。
では、必要のない試練とはなんなのか。
この必要な試練をいつまでも受け入れずにずっと逃げていたり後回しにしているとまだ気づかないか…と問題が雪だるま式に大きくなってしまう、というようなものだと思います。
そのひとつが供養不足の訴えだと思うのです。水子さんもご先祖さまも、供養をしてほしいという訴えがある場合、それを子孫にアクシデントや症状という形で出されるのですが、
代々気づかずにいるとまだ気づかないか…とわかってもらうまで下の代に出るということです。
それは長くて5代くらいと学んだのですがもうそれ以上の方は諦めて出さなくなる…とのこと。
なので、問題があってご供養に辿り着かれた方には、まず3代にお困りの方がいないか探して頂いて、その供養でもまだ問題が引かないなら5代まで広げて探す必要がある、という感じで取り組んで頂いています。
ご相談を受けた方の半生を伺っていると
この代で水子さんの供養をされていたら
お孫さんはこんなことにはならなかっただろうに、とか
この方の人生がこんなに辛かったのは代々の水子さんの供養不足の因縁を背負ってしまったんだなぁ、とか見て取れることがあります。
こういう辛さは魂を磨くためではないと
思うんですね。もちろん、そんな生活からも学ぶことや得ることは沢山あると思うのですが、本来用意されていた試練とは違います。
ただご先祖さまや水子さんが訴えに気づいほしくて出しているサイン…供養すれば改善するものなのです。
沢山いろんなことを学ばれて
「私はこういう運命だったんだと受け入れます」
「それもいいかなと思って」
などと、言われる方もおられるのですが、その見極めは正しいか、よく見つめて頂きたいと思うのです。
そしてそれが必要ではない試練だとわかれば本来のご自分の人生を取り戻す為にも是非取り掛かってご供養して頂けたら、と思います。
*供養と宗教は違います。